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氷菓子
二月も半ばのある日のことだった。
風は相変わらず冷たく肌を刺す。
僕はいつものように教室に入ると出欠を取り始めた。
出欠を取り終わり、授業を始めようとした時、生徒が窓を見て叫んだ。
「あ、雪だ!」
クラス中がわっと色めき立つ。
窓を見るとゆらゆらと雪が降り始めていた。
「雪の日にデートとかしたいよね!なんかロマンチック」
生徒の一人がおどけて言った。
「先生は雪の中でデートするのってどう思います!?」
生徒からの突然の問いにびくっとする。
「その反応は彼女持ちとか?」
オォーッと歓声が上がった。
彼女か、君は今頃何をして何処にいるのだろうか。そんな思いが頭に過ぎる。
「いない、いない」
やっぱり?と生徒達が笑った。
僕は苦笑いしながら生徒達を宥める。
「そろそろ授業はじめるぞ。一旦静かに」
* * *
雪を見るといつも彼女のことを思い出す。
透き通った目を、艶のある髪を、声を、そしてあの日のことを思い出して悲しくなる。
あの時の僕はまだ高校生だった。
大人になったつもりで、中身は弱く脆い子供のままだった。臆病で、無知で、それでいて全てが思い通りに行くと信じていた。
物心ついた時から奈々未とは一緒にいた。寧ろ一緒にいなかった時間の方が少なかったと思う。
小、中と地元の学校に通い、僕も奈々未も近くの同じ高校を受験して地元に残った。
そんな彼女から突然別れを告げられたのは、二月に入ったばかりの放課後の帰り道でのことだった。
「私、この街を出るの」
彼女はそう言った。
「なんで、いきなり、?」
「そうしなきゃいけないの。私はこの街を出て行かなきゃ、そしてお別れしなきゃいけないの。」
悲しそうに彼女は微笑んだ。
「おい、冗談よせよ」
長い付き合いの中で彼女が冗談を言っていないのは分かっていた。これが野暮な質問であることも頭の中ではちゃんと理解していた。けれど、彼女がいなくなるという事実をどうにかして否定したかった。
「本気。」
僕は何を言っていいかも分からずに下を向いた。
「明日、学校でも言う」
「いつ、街を出るの?」
「20日に出るの。誕生日にこの街とお別れするなんてさ、なんか虚しいね」
そう言うと彼女は空を見上げた。
冷えきった二月の空は驚く程に澄んでいて、どこまでもどこまでも青かった。
僕達は無言のまま空を見上げて歩いた。
気がつくと、いつの間にか彼女の家の前まで来ていた。
「じゃあ、学校で」
彼女はそう言って家の中に入っていった。
僕は無言で手を上げて彼女と別れた。
僕の家は道路を挟んで奈々未の家の左斜め向かいに位置していた。
何となく家に帰る気分ではなかった僕は、そのまま家を通り過ぎて、街の外れまで意味も無く歩いた。
途中、彼女の言葉が何度も何度も僕の頭を駆け巡った。
自然と瞳が潤んで涙が溢れる。
情けなくて寂しくてよく分からない気持ちで心がごちゃ混ぜになっていた。
大きく溜息を吐きながら見上げた空は、やっぱりどこまでも青く澄み渡っていた。
次の日の一限の時間、先生は奈々未から話があるからと言って授業中に時間を取った。
「凄く急だけど、20日に引っ越すことになりました。」
クラスがざわめく。
「今までみんなと過ごせたこと忘れません。あ、なんか今からお別れするみたいになっちゃったけど、まだもう少し時間あるからね」
彼女はそう言って笑った。
結局、その時間の授業は潰れた。
彼女の周りにはクラスの女子達が集まって、あれやこれやと話をしていた。
僕は無言でぼーっと窓の外を眺めていた。
突然ぽんっと背中を叩かれる。
「びっくりしたよな、お前橋本とずっと一緒だったのに、残念だな。」
中学からの同級生が言葉をかけてきた。
僕は乾いた声でうんと返事をして、また窓の外を見つめた。
「気持ちは伝えなくていいのか」
「無理だよ、今更、別れる前に関係を壊したくない」
僕は彼女に聞こえないように声を落として返事をした。
「だからこそ、別れるからこそ、伝えた方がいいんじゃない?後腐れなくさ」
僕は答えることなく無言で窓の外を見つめてた。
結局、彼女に思いを伝えられずに、着々と時間だけが過ぎていった。
クラスでは彼女は悲しそうな顔を一切見せず、常に明るく振舞っていた。
放課後、帰り道で昔の思い出話をした時、彼女は悲しそうな表情を浮かべた。
しかし、それも一瞬のことで、すぐ元の明るい顔を僕に向けた。
「懐かしいな、それ」
「だよね。楽しかったなぁ、あの頃」
僕も彼女に心配をかけまいと、彼女の前では悲しく染まった心を隠して明るく振る舞った。
「ラーメンでも食べいく?」
「お、いいね」
「ジャンケンポン」
突然彼女がじゃんけんを初めた。
「よっし、私の勝ち。奢りね」
彼女は笑いながらそう言った。
「はぁー?そんなん聞いてねぇし!」
「もう決まり、早く行こ」
彼女が僕の手を引いて急かす。
以前までは当たり前だった日常が、彼女の別れが近づく度にとても大切に愛おしく感じた。
僕達は変わらずに毎日を過ごした。
クラスでは以前と同じように明るく過ごしていたし、放課後は二人でくだらない話をしながら寄り道して帰った。
悲しみを隠して「いつも」を繰り返す度に、僕の心はより深く悲しみに染まっていった。
家に帰ったらベッドに倒れ込んで深く眠った。目が覚めると泣いた。
気持ちは伝えられないまま、サヨナラまであと一日となった。
ずっと長い間一緒にいたのに、たった一言を伝えるだけがどうしても出来なかった。
彼女と過ごす最後の放課後。
「ねぇ、今日はさ、徹夜しようよ」
「徹夜?」
「うん、散歩してずっと話していたい」
僕は今にも泣きそうな心を押し込んで笑った。
「いーよ、最後だし、ぱっと楽しく行こうや」
二人でいつものように駅前でラーメンを食べて、ぶらぶらと街を歩いた。
「電車が近づく音ってなんか好きなんだよね」
高架線の下を通りかかった時ポツリと彼女が呟いた。
ガタンゴトンと轟音を立てて電車が通過する。
「これって変かな?」
「昔から変人だったよ、奈々未は」
「うっさい」
笑いながら頭を叩かれた。
くだらない話をしながら街を歩いて、空腹になるとレストランに入って軽くご飯を食べた。
そしてまた深夜の街を暫くぶらぶらと歩き、疲れると喫茶店に入って休んだ。
「考えるとさ、いつも一緒だったよね、私達」
「お節介だし、口うるさいし」
「下品で馬鹿に言われたくない」
時には憎まれ口を叩いたり、時には思い出話をしながら僕達は語り合った。
どんなに昔のことでも鮮明に思い浮かべることが出来た。あの時はこうして、あれがああだった。とか、これがこうだった。とか。
そのどれもが大切な思い出で、話す度に僕の血液が悲しみに染まって身体を駆け巡った。
窓の外を見るといつの間にか空は白み始めていた。
「もう、こんな時間か、」
「そうだね、」
彼女は喫茶店を出ると、すぐ横にある自販機でペットボトルのお茶を買って飲んだ。
「いる?」
「うん。」
酷く喉が乾いていた。
「そろそろ、電車の時間なんだ。」
「もう行くの?」
「うん、始発に乗らなきゃ」
「、、じゃあ、行こうか」
二人で駅までゆっくりと歩いた。
朝焼けがキラキラしてびっくりするくらい眩しかった。
二月の明け方は冷たく冷たく冷えきっていた。
僕達は自然と手を繋いで歩いた。
「あ、雪だ」
白い息を吐きながら彼女が空を見て呟いた。
ゆらゆらとゆっくり白い雪が街に降りてきた。
朝一番の駅のホームは閑散としていた。
もうすぐ、もうすぐ、彼女とお別れしなければいけない。
僕は繋いだ手をぎゅっと握り直した。
「ねぇ、奈々未」
「なに、」
「もう、サヨナラだね」
「うん。」
「行って欲しくないんだ。ずっと一緒にいて欲しかったんだ。こんな辛い別れをするなら、僕は奈々未に出会わなかった方が良かったのかな」
堪えていたものが壊れて、涙が止まらなかった、
「人はね、必要な時に、必要な人に会うの。」
彼女は繋いだ手に力を込めると言った。
「私達が出会ったのも別れるのも多分決まっていた気がするの。もし私達が幼なじみっていう関係じゃなかったとしても、私達はいずれ何処かで出会って別れるの。運命だとか奇跡だとかそういうのは分からないけど、そんな気がする」
彼女はそう言ってこちらを向いた。
出会いがあれば別れもある。生まれれば死ぬ。
物事には必ず表裏がある。
何かが始まるということは、同時に何かの終わりが始まるということでもあるんだ。
ガタンゴトンと電車が近づく音がして僕達は繋いだ手をそっと放した。
「奈々未、俺さ、ずっと好きだった」
「私も好きだった」
僕は笑いながら泣いた。
彼女は泣きながら笑った。
多分、僕達はもう二度と会えない、これが彼女と話をする最後になってしまうような気がした。
ふわっと空気が動いて彼女に抱きしめられた。
目を合わせると優しく、優しく口付けした。
「さよなら」
「サヨナラ」
雪の中を走って行く電車を僕はいつまでいつまで見つめていた。
まだ彼女の温もりが側にある気がした。
* * *
「先生、先生?どうしたの?」
長いこと僕が黙っていたので、クラスはいつの間にか静まり返っていた。
「あぁ、ごめん。ちょっと考えごとしてたんだ。24ページの例題を解いておいてくれないか?プリントを取ってくるから。」
そう言ってクラスを出る。
ふぅっと息を吸い込むと冷たい空気が肺に染み渡った。
いつの間にか雪は止んでいた。
窓の外の世界では人や車が忙しなく動き回っていた。交差点の人混みの中に彼女の顔を見た気がして、驚いて見つめてみたけれど、雑踏に紛れて分からなくなった。
雪が降りやんだ空はどこまでもどこまでも青く青く澄み渡っていた。
※終わりに
2月20日に書き終えて公開しようと思っていた作品です。
今更ですが、 書き終えて公開することにしました。
僕なりに色々詰め込んで書いたつもりです。
拙い文書ですが最後まで読んで頂き、ありがとうございました。